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歴史

2016/08/14

尺八はいつからあるの?

まず尺八の起源ですが、有力な説としては唐(今の中国)の呂才が考案したというものがあります。
日本には7世紀末位に伝来してきました。
「尺八」名前の由来は標準の長さが一尺八寸である事にに由来していると言われています。
当時の尺八は6孔で、正倉院に保管されています。
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正倉院HP
日本に伝わった時は雅楽楽器として伝わりましたが、平安時代頃には使われなくなってしまいました。

一節切の流行

その後、鎌倉時に「一節切」(ひとよぎり)という楽器があらわれ、名手といわれた大森宗勲の登場によって広まりました。
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これは現在の尺八と同じ5孔でした。
ですが、節はひとつしかなく、短かったようです。
かの織田信長も所有していて、豊臣秀吉、徳川家康と受け継がれていったといわれています。

そして一節切を演奏する薦僧(こもそう)と呼ばれる集団が1400年代後半頃に現れました。

虚無僧の登場

虚無僧笠 天蓋笠 愛畳本舗
虚無僧笠 天蓋笠 愛畳本舗
江戸時代には薦僧は、時代劇等でおなじみの虚無僧(こむそう)と名乗り、普化宗(ふけしゅう)を作りました。
この頃は尺八は法器として、普化宗所属の虚無僧しか吹いてはいけない事になっていましたが、一般人でも吹いていた人はいたようです。
三節の「三節切(みよぎり)」という尺八も登場しています。
この虚無僧が吹いていた尺八が現在の尺八となり、現在の尺八は「普化尺八」であります。
音量や表現力が優れていたため、一節切は急速に廃れていきました。

琴古流と都山流

琴古流

18世紀頃「黒沢琴古(くろさわきんこ)」は、虚無僧が吹いていた曲(いわゆる「本曲」)30数曲をまとめ、「琴古流」という流派が出来ました。
二代目琴古の時代に楽譜などの整備がされました。
この頃「吹合所」が出来、箏や三味線と合奏もしていたようです。
吹合所では「本則(今でいう免状)」を発行して収入源としていました。

ただ、「琴古」の名は黒沢家で引き継がれていましたが、四代目の後に引き継ぐ人物がいなかったため、「黒沢琴古」の名は途絶えてしまいました。
しかし、三代目琴古の弟子の久松風陽が芸を引き継ぎました。
この久松風陽の系統に荒木古童がいました。

明治時代になると、普化宗は新政府により廃止されました。
江戸末期、普化宗は無頼の徒のたまり場になったり、「本則」の乱発など反社会的な状態に陥っていたことが原因のようです。

ただ、もちろん真面目に尺八を演奏していた人たちがいました。
それまで本曲だけ演奏してきた多くの専門家が、市中で行われていた「三曲合奏」を始めるようになりました。
二世荒木古童は、箏、三味線と積極的に合奏し、手付をしていきました。
これにより一般に普及していきました。
また、この二世荒木古童の弟子に、初代川瀬順輔や上原六四郎、三浦琴童などがいました。

三世荒木古童は名人といわれ、特に三曲合奏で独自の「荒木手法」と呼ばれるスタイルを確立させました。

符点法の考案

二世荒木古童に師事していた上原六四郎によって考案されたのが琴古流の「符点法」です。
上原六四郎は元々学者であり、物理学や音響学に長けていました。
それまでも楽譜はあったのですが、あくまで音名(ロツレなど)のみで、リズムというものがありませんでした。
しかし、三曲合奏などが盛んになると、リズムを表す必要が出てきました。
そこで、考案されたというわけです。

これを広めたのが、初代川瀬順輔や三世荒木古童でした。

都山流

1896年(明治29年)、「中尾都山(なかおとざん)」が「都山流」を興しました。
当時なんと19歳でした。
中尾都山は大阪の生まれで近藤宗悦の系統でしたが、独自に演奏活動を行いました。

中尾都山は独自の記譜法を使い、箏の宮城道雄らと積極的に交流し、合奏を広めました。
こうして「新日本音楽」の立役者の1人となりました。
また、作曲も行い、1903年の「慷月調」を始めとして、従来の古典尺八曲にはない新しい「都山流本曲」を次々と作曲しました。
古典尺八曲はほとんど独奏曲でしたが、都山は合奏曲の本曲という新しい分野を開拓しました。

試験制度による教授者の育成(1911年より)、評議員制度による組織の運営(1917年より)などの新基軸を打ち出し、短期間で都山流は尺八界最大の流派になりました。
1922年には本拠地を大阪から東京に移し、関西中心だった都山流を東京でも広めました。
こうして都山流も全国に広まり、大きな組織となりました。

ただ、二代目の早世などによる継承問題などもあり、現在は「都山流尺八楽会」「新都山流」「日本尺八連盟」に分裂している。

その他の流派

上田流

1917年(大正6年)に流祖上田芳憧により創立されました。
当初は都山流に入門し、上田佳山という名で最高位の竹琳軒まで登りつめたが、公認を得ずに自作曲を発表したことなどから破門。
その後、上田芳憧と改名し、上田流を創始しました。
記譜法や奏法は都山流を継承しています。
7孔尺八を考案し、流派を越えて現在でも幅広く使用されています。

竹保流

近藤宗悦の系統で松調(しょうちょう)流(藤田松調)から独立し、1917年(大正6)初世酒井竹保が創始した流派。
初代竹保の考案した記譜法は、関西に古くから伝わるフホウエ式譜と関東系のロツレチ式譜を組み合わせた独自のもので竹保流の最大の特徴の一つとなっています。
奏法としては関西宗悦流の特徴を受け継いでおり、地歌筝曲等に独自の手付けを行い、その関西風の味が他流にはない妙味として珍重されています。
流祖作曲の新本曲(ほんきょく)や、明暗(みょうあん)古典本曲の伝承などにおいて、他流にない特徴をもつ。

現代の尺八音楽

その後、洋楽を学んだ作曲者が和楽器を使って作曲したりと多様なスタイルで演奏されるようになり、現在に至ります。
流派などの垣根を越え、さまざまなジャンルに挑戦する演奏家が増えています。


参考・出典
演奏家のための日本音楽の理論と実践
はじめての尺八
鳴るほど・ザ・尺八 尺八入門
童門会 http://h.kuri-34.com/k-syakuhati/doumon.html
都山流尺八楽会 http://tozanryu.com/tozan/rekisi.html
竹友社 http://www.chikuyusha.jp/info/about.html
上田流 http://www.uedaryu.jp/
竹保流 http://www.chikuhoryu.jp/index.html
(順不同)

-尺八の基本